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ある時を境に、冷たい人間だと、心のない人間だと言われるようなった。
笑わない、人と積極的に交流を持たない、そんな面白味のない人間だと言われるようになった。

ある時期に親しくなった(少なくとも周囲からはそう見えた)女性がいた。彼女は感受性のとても強い女性で、私の、自分では自信のあった愛想笑いを直ぐに見抜き、何かにつけて側にいて、支えようとした。私はそれがとても不愉快だった。出会ったばかりの彼女が、これまでの自分を知っているかのように接してくるのは、私の自信が化粧をしたような、尊大で矮小なプライドが許さなかった。
それでも、彼女の熱心な心遣いにより私は段々と彼女の存在を受け入れ、やがて心地良くなっていった。などということはまるでなく、終始不快だった。
というのも、彼女が私の側で支える、という一連の行為にある種の虚栄心が見え隠れしていたからだ。支えるのであれば虚栄心は上手に隠せ。もしくは無垢でいろ。しかし残念なことに、無垢な人間など赤児を除けばこの世にいない。私の女性に対する不信感は日に日に募り、やがて彼女とはやや一方的に決別した。真意はどうあれ、頻繁に連絡を取り合い、食事をした間柄の人間を自分勝手な感情で拒絶しておいて、悲壮感も喪失感も、解放感も。なにもなかった。なにもないことに幾許かの安堵と絶望を感じつつ、今なら周囲の「冷たい人間だ」という揶揄を受け入れられる気がした。

学生の頃、数人の友人達といつも一緒にいた。自分の勘違いでなければ、彼らこそ親友と呼べるものだと思う。親友という曖昧な単語が嫌いな私がそう思う程、素晴らしい友人だ。彼らといて気付くのは、私が求めていた安堵感は愛情によるそれではなく、友情なのだという事だ。もしくは、友情と愛情の混合した感情と関係。
私は短期間の恋人関係は恋愛であるが、長期間の恋人関係は友情に近いものだと感じている。今私は友情を手に入れ、以前ほど冷たい人間だと言われなくなった。しかし、冷たい人間ではなくなったかと言われれば、それはそれで疑問の残る所だ。

この正月に、約半年ぶりに実家に帰った。5月に一人暮らしを開始してから初めての事だ。
実家に住んでいた頃、私は其処がどうしようもなく居心地が悪い、はっきり言えば嫌いな場所だった。親子仲が悪い、決定的に意見や感性が合わない、血が繋がっていない、子供の頃はよく暴力を受けた等、色々理由はあったのかもしれない。ただ私は家族の事が本当に苦手だった。
実家に住んでいた頃は、私は家族の事が嫌いなのだと思っていたが、おそらくそれは違い、苦手だったのだと今では思う。根本的に合わない人間同士なのだ。当然、感謝はしている。これまで育ててもらい、今でも気にかけて貰っている。感謝はしてもしきれない。ただ、どうにも好きになれない。私は冷たい人間だろうか。きっと、冷たい人間だろう。冷たい暖かい以前におそらく人として何処か欠落しているのかもしれない。久しぶりに会った両親は歓迎してくれた。それに対して感謝もした。
ただ、その時にふと、自分は両親が死んでも泣かないだろう、という確信を得た。そんな後味の悪さを残す帰省となった。

実家では煙草が吸えない。
一人暮らしのアパートに帰宅途中、2日ぶりに吸った煙草は病み上がりの味がした。