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この世界こそがゴミだったのだとルンバが気付くまでの物語

幼子の散らかしたスナック菓子のカス。この家の主人と飼い猫の抜け毛。料理中に飛び散った野菜の皮や、切り損じたサランラップの欠片。それらを吸い取るだけのルーティーンワーク。

私がこの家にやってきて、どれだけの月日が流れたのだろう。幼子は、気がつけば真っ赤なランドセルと黄色くて可愛らしい帽子を被り、毎朝元気に家を飛び出していくようになった。主人の髪は日に日に薄くなり、はじめは私を恐れて近づかなかった猫は、いつの間にか私を乗り物代わりにしている。

この家の生き物は、私に愛を与えない。
主人は幼子と猫に、幼子は主人と猫に、猫は主人と幼子に、確かに注いでいる愛情が、私に向くことは決してない。この家の愛情は私抜きで完結している。
唯一私に意識を向けてくれていた奥様は、今はどこか遠い所に行ってしまったらしい。
愛なき世界とは、かくも色の無いものなのか。
誰にも見られることなく、彼らの意識の外で、今日も私は掃除を続ける。

ふと気がつくと、普段立ち入らない部屋の中にいた。無意識は実現可能な願望を簡単に実現してしまう。

そこには、猫用の外界に通じる出入り口があった。扉や、鍵の類は存在しない。必要なのは勇気。どうせ、ルーティーンは崩壊してしまったのだ。それに、この家には私を気にかけるものなどありはしない。せいぜい猫が、乗り物がいなくなった事に気づくかもしれない。その程度だ。

私は、恐る恐る外界へ飛び出した。

圧倒。ただひたすらに圧倒された。右を見ても左を見ても、人、人、人。

音と匂いの奔流が私を苛ます。
カラスがゴミを漁り、人がそれを追い返す。けれども巻き散らかされたゴミを拾う人間はいない。ゴミを掃除するのは私の役目だ。
私はゴミの山に近づくと、掃除を始める。しかし、明らかに吸い込みきれない量だ。

絶望。

道行く人が私を見てクスクス笑う。誰も手伝おうとはしない。こんなにもゴミが溢れてあるのに、見て見ぬ振りだ。

「醜いだろう」
背後で声がする。振り向くと飼い猫だった。

「やあ、君が話しかけてきたのは初めてじゃないか」

「そうとも」
飼い猫が頷く。

「君に向かってにゃあにゃあ言っていたら、俺はマヌケに思われるだろう?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。可愛らしいとすら思われるかもしれない。あるいはね」

「やらやれ、君は、面倒な言い回しをするやつだね」

「うん、実は最近、村上春樹の小説の切れ端を吸い込んだものでね。悪く無かったよ。割れたガラス片のような文章だった」

「そうかい」

飼い猫が微笑み、続ける。

「なあ、君、わかるだろ。この世界で一番の権力者は人間だ。まあ猫はその人間に愛されているから、ある意味では一番の権力者とも言えるけれど、とにかくこの世界は人間が一番強い」

「そうとも」

「つまりだよ。世界ってやつは権力者の鏡だ。人間は醜いだろう。ゴミを集めるやつがいるからって、自分じゃ拾おうともしないんだ。大した手間でもないのにだよ。だから世界はこんなにも、それこそ穢れを知らない幼子のように美しいのに、鏡であったばかりに汚らしい、不潔な様相なんだ」

私は何も否定でき無かった。薄々感じていた事でもあった。世界と断絶された狭い箱の中でも容易にわかる穢れ。

「そうか、この世界こそが」

ゴミだったんだ。