Rock_ozanari’s diary

ノージャンル。音楽系はまあまあ多いです。

モテない男を勘違いさせる女子

私はモテないんですよ。それはもう絶望的に。
世の中にはモテない男子はたくさんいるでしょう。そんな純真無垢な男子達に共感しかしてもらえないであろう記事を今日は書きたいと思います。

「あれ、こいつ、俺の事好きなんじゃないの…?」

そんな風に思わせる行動をする女子、いますね。パターン毎に書いていこうと思います。

【其の一】 目が合う
これです。私たちのような非モテメンズは目が合うだけで恋に落ちる。実にチョロい。何故目が合うだけで恋に落ちるかって?それは我々がモテないから。例えば授業中、退屈で仕方がなく、ふと斜め後ろを振り返ると女の子と目が合って、控えめに微笑まれる。これはもう駄目です。イエス、フォールインラブ。その日の晩にはメールとかで告白しちゃう。もちろん返信は来ないんですけどね。下手したらメールアドレスを知らない可能性もある。

【其の二】 休み時間、自分の机に腰掛けている
これは高校までなんですが、教室って席が決まっていますよね。休み時間になると私はトイレに行く訳です。そして帰ってくると、自分の机に女子が腰掛けてなにやら喋っている。なに?俺の事好きなの…?こうなります。しかし実際はそんなことはない。たまたま私の席の前後左右に仲の良い奴がいる。それだけです。「ちょっとそこどいてくれない…?」この一言が言えない私はいつも休み時間が終わるまで教室後ろの見たくもない掲示板を見て過ごしていました。というか机に座ってんじゃねぇぞ。もちろんそんなことは言えない。

【其の三】 隣に座る
これはもうどこでも良い。教室だろうが電車だろうが居酒屋だろうがカラオケだろうがどこでも良い。あれ、俺の隣以外にも席空いてるのに隣に座るってことは…もしかして…。でも実際はなにも気にしていない。本当に、なにも。もしかしたら私の存在に気づいていないだけの可能性もある。隣にいるのに。

【其の四】 「それ、一口ちょうだい♪」
もはや説明不要。だってあなた、それ間接キスですよ。もうこれは俺の事好きでしょ!好きじゃないならそういうことしないでよ!みたいな。非モテメンズってのは純真なんです。弄ばないで。

【其の五】 相談
非モテメンズのような無害な生き物には経験が多々あると思う。相談。「あれ、俺、頼りにされてる…?」されてません。無害なだけです。決して名前を明かさない恋愛相談。「あれ、これ、もしかして俺の事…?」

私「もしかしてそれって俺のこ…」
女「名前明かしちゃうと高橋君の事なんだけどね(照)」

高橋君死なないかなー!

汚い。女子って奴はなんて汚いんだ。

【其の六】 ❤️
メールやLINEの❤️の絵文字。これはもう、本当に勘違いしますからね。

女「今日授業くる?」
私「行くよ」
女「ほんとにー!じゃ、一緒に受けよ❤️」

やめましょうね、本当にね。本当に。その気がないなら。

【其の七】 服装
これは実体験に基づき確実に意識させる事ができる方法。
大学生の頃、ギャルってる後輩の女の子と仲が良かった。ある日の事。

女「先輩ってどういう女の子が好きなんですか?」
私「大人しめな服装と髪型の子が好きです」

その次に会った時、髪を黒く染めて大人しい服装をした彼女に会いました。

それはずるくないですか?!

といった具合です。女子って奴は非モテメンズをからかうのが好きなのかもしれない。なんて奴らだ。

ある時を境に、冷たい人間だと、心のない人間だと言われるようなった。
笑わない、人と積極的に交流を持たない、そんな面白味のない人間だと言われるようになった。

ある時期に親しくなった(少なくとも周囲からはそう見えた)女性がいた。彼女は感受性のとても強い女性で、私の、自分では自信のあった愛想笑いを直ぐに見抜き、何かにつけて側にいて、支えようとした。私はそれがとても不愉快だった。出会ったばかりの彼女が、これまでの自分を知っているかのように接してくるのは、私の自信が化粧をしたような、尊大で矮小なプライドが許さなかった。
それでも、彼女の熱心な心遣いにより私は段々と彼女の存在を受け入れ、やがて心地良くなっていった。などということはまるでなく、終始不快だった。
というのも、彼女が私の側で支える、という一連の行為にある種の虚栄心が見え隠れしていたからだ。支えるのであれば虚栄心は上手に隠せ。もしくは無垢でいろ。しかし残念なことに、無垢な人間など赤児を除けばこの世にいない。私の女性に対する不信感は日に日に募り、やがて彼女とはやや一方的に決別した。真意はどうあれ、頻繁に連絡を取り合い、食事をした間柄の人間を自分勝手な感情で拒絶しておいて、悲壮感も喪失感も、解放感も。なにもなかった。なにもないことに幾許かの安堵と絶望を感じつつ、今なら周囲の「冷たい人間だ」という揶揄を受け入れられる気がした。

学生の頃、数人の友人達といつも一緒にいた。自分の勘違いでなければ、彼らこそ親友と呼べるものだと思う。親友という曖昧な単語が嫌いな私がそう思う程、素晴らしい友人だ。彼らといて気付くのは、私が求めていた安堵感は愛情によるそれではなく、友情なのだという事だ。もしくは、友情と愛情の混合した感情と関係。
私は短期間の恋人関係は恋愛であるが、長期間の恋人関係は友情に近いものだと感じている。今私は友情を手に入れ、以前ほど冷たい人間だと言われなくなった。しかし、冷たい人間ではなくなったかと言われれば、それはそれで疑問の残る所だ。

この正月に、約半年ぶりに実家に帰った。5月に一人暮らしを開始してから初めての事だ。
実家に住んでいた頃、私は其処がどうしようもなく居心地が悪い、はっきり言えば嫌いな場所だった。親子仲が悪い、決定的に意見や感性が合わない、血が繋がっていない、子供の頃はよく暴力を受けた等、色々理由はあったのかもしれない。ただ私は家族の事が本当に苦手だった。
実家に住んでいた頃は、私は家族の事が嫌いなのだと思っていたが、おそらくそれは違い、苦手だったのだと今では思う。根本的に合わない人間同士なのだ。当然、感謝はしている。これまで育ててもらい、今でも気にかけて貰っている。感謝はしてもしきれない。ただ、どうにも好きになれない。私は冷たい人間だろうか。きっと、冷たい人間だろう。冷たい暖かい以前におそらく人として何処か欠落しているのかもしれない。久しぶりに会った両親は歓迎してくれた。それに対して感謝もした。
ただ、その時にふと、自分は両親が死んでも泣かないだろう、という確信を得た。そんな後味の悪さを残す帰省となった。

実家では煙草が吸えない。
一人暮らしのアパートに帰宅途中、2日ぶりに吸った煙草は病み上がりの味がした。