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「頑張っている人」を評価する弊害

頑張ることは尊い事だ。頑張る事は美しい。スポ根マンガが世間にウケるのはそういう部分もあるだろう。努力に努力を重ね、強敵に打ち勝つ。実に感動的だ。頑張る事は評価されるべきだ。

さて実生活ではどうか。
会社勤めの人間にとって上からの評価というのは生活に関わる。何故か。給料に反映されるからだ。しかし「頑張っているか」どうかの正確な認識は実は非常に難しい。そこで一つの指標になるのは『残業』である。

社員の給料を左右する権利を持っている上席者は、多くの場合現場で一緒に仕事をしている訳ではない。そして、自分以外の人間の仕事量やその内容など、実はオフィスで隣に座っている人の分ですら実はよくわかっていない場合が多い。

例えばAさんとBさんが同じ量の仕事を受け持ったとする。周りの人は彼ら2人が同じ仕事量だとは知らないとして、仕事がいつも早くミスもないAさんはキッチリと定時の17:00で仕事を終わらせそそくさと帰っていく。一方Bさんは仕事をテキパキとこなすことが出来ない。少しやっては煙草を吸いに行き、また少しやってはノンビリコーヒーを飲む。もちろん定時では終わらない。しかしなんとしてもこの仕事は今日中に終わらせねばならぬ。こうしてBさんは残業をし、22:00に退社した。

さてこの場合、明らかにAさんの方が有能であり、更に頑張っている。
しかし上席者は個人の仕事内容までは知らない為、「Aは定時でさっさと帰ったのにBは5時間も残業している!素晴らしい!頑張っている!」となる訳だ。
「頑張っている」かを判断する指標が残業になるとこういう事が起きる。おそらく多くの会社がこうだろう。
小学生の頃を思い出して欲しい。居残り勉強をさせられていたのは、いつも勉強が出来ない子ではなかったか。与えられた課題を授業時間内に終わらせる事が出来なかった子ではなかっただろうか。まだ走り回るだけで楽しかったあの頃、いつまでも学校に残って勉強をさせられていた少年は「勉強が出来ない子」であり「頑張っている子」ではなかったはずだ。(もちろん、出来ない事を出来るようにする為の居残り勉強は頑張っているという評価の対象だ)

そしてこの残業=「頑張っている」という公式が一度出来上がってしまうと、「残業する事が前提」という恐ろしいシステムが出来上がる。何故か。残業をしない人は頑張っていないからだ。
そして残業が前提になってしまうと、なにも必死に定時内で仕事を終わらせる必要はなくなる。今まで100%の力で仕事をしていたAさんは、50%の力でしか仕事をしなくなる。Bさんと同じように。
こうして定時内の生産性が下がり、残業代を払う会社は支出が増え、日頃長時間拘束されている社員は慢性的に疲労が溜まり、更に生産性が落ちるという誰も幸せにならない完全な悪循環となる。

しかし「じゃあこの状況を打開しよう!」となったとしても、その術は無いに等しい。いっそのこと法律で残業の完全禁止、定時での強制退社でもしない限りは無理だ。そしてもしそうなった場合、潰れる会社も相当数出てくるだろう。それでは日本は終わりだ。(とっくに終わっている気もするが)

こういう言い方をすればバッシングを受けるかもしれないが、「仕事」なのだから頑張っているか否かは評価外にし、実力のみを評価するべきだ。スポーツを例にあげれば、甲子園優勝を目標にして毎日毎日血反吐を吐くほど練習する野球部は感動的だが、一度負ければそれでおしまい。努力をしなくても最強な天才ピッチャーの球を誰も打てなければいくら頑張っても負けは負けであり、努力をしなくても最初から即戦力なそのピッチャーをプロは欲しがる。
現実の世界で、努力は必ずしも報われるものではないし、努力が評価されるとも限らない。結果が全ての世の中ならば、結果に比重を置いて評価をするべきだ。
最もそうした場合、結果をかっさらっていく上司が現れたりと色々な弊害もあるだろう。つまり結論としては、この国の労働環境はとっくに破綻してしまっているという一言に尽きる。諦念を隠さず言えば、もうこれは仕方がない。なるべくしてなった。それだけだ。